●2009年09月01日(火)
雑感 柳宗悦氏らが提唱した民藝運動のことは、正直よく知らないし, そのことについて文献を調べたり、または駒場にある民芸館にも行った事はない。 白州正子さんのことも、同じく著書を読んだ事もなく、多くは雑誌などで取り上げられた記事を眺めたりするぐらいで、当然、武相荘に足を運んだ事もない。 そういう自分が、こういうことを言うのは甚だおこがましいことだと思えるのですが 得意の表層をすくう思考パターンからすると、今の着物というか、呉服を専門とする 処であるならば、こうした(民藝的目利き?)着物や作家を全面に打ち出した展開をするのが、質の高い店となっていると思います。 確かにそれは昔から当然普通にあったことなのですが、それがより顕著に感じられます。今でもセット価格いくらとか、なんとかセールとかそういう切り口でお客様を呼んで成り立っている呉服屋も当然多くあるのですが、先導にいる呉服屋はそういう販売はまったくしないで、より着物の工芸性とオリジナリティーを追い求めています。 日本の呉服屋のすべてを知っている訳ではないけれど、着る人へのサービスとか様々な企画販売以外で、先端を行く呉服屋はどこもおしなべてギャラリー的要素が強く、いままではあまり一般の人に知られていなかった方の名前が出て、その方の多くの作品に出合えるのも一つの形です。 白州正子さんの美意識は、いまでも、もてはやされ、憧れの対象であり、そこに何かを学びたいという方は多くいらっしゃいます。昔、白州さん自身も呉服の経営を任されていたこともあり、僕のような男からみても興味が涌きますが、嗜好しているものは違い、民芸調は嫌いだ!て公言してきた呉服屋なので、その選ばれたものよりも、ものの見方に勉強させられることがあります。 表層だけを捉えた薄い考えかもしれませんが、今でも柳一派と白州さんの価値観が この着物の世界でも、大きなウエートを占めているのだと!思っています。フォーマルな着物が売れなくなって来た、ある意味正常化した着物のあり方、日常着として 着物を着ようとする人々にとって、先人達の考えは、今でも色褪せていないのだと痛感します。 8月の終わりに、格式のある帯屋さんの方とお話をする機会に恵まれ、そこで受け継がれて来たもの創りの哲学と、それをもとに織り上げられた様々な帯を拝見してきました。やはりここでも、国内の糸からのこだわりがあり、初めて知った塩浸けされた繭からの糸の光沢感には驚かされ、さらには砧打ちした帯生地の艶やかさには目を見張りました。 選ばれた呉服屋だけが扱える、選ばれた糸、そして帯でした。 西陣をまわり、偽りのお召が横行している事実もよく分かりました。 これは利潤を追求して作らせる人たちがいるからで、コストのことのみを考えて、偽物を本物として売るのはどこの業種でも聞くところですが、こうした本物のものつくりをしている傍らで、こういうことをする人たちがいるのも事実です。 紋代がいままでよりも高くつきました!だから、頑張って売って欲しい・・・ 新作のお召絵羽は、とてもよいものでした。ドットでもなく、格子でもなく スーツ感覚を見事に新しい柄で表現してくれています。ここのお召は本物です。 そしていつまでも昔のままでなく、変化して成長しています。まちがいなく。 素直に頑張って売っていきたい着物です。 手応えのある着物や帯が、店に来るとそれだけで新たな活力が沸き、自分の自信にもなりお客様の来客が楽しみになります。それはたとえ一枚の着物でもそうです。 ぼくは、これだと思うのです!と一枚しか薦めなくてもそれで決まる事が多々あります。もちろんある程度は用意はしておくのですが・・・たった一日の、夏の終わりの日の為に誂えたレース織り地風の夏お召。2反しか織り上げられなかったその1反が お茶席で大絶賛されたとのこと。嬉しい限りです。 夏が終わりました。これからもさらに、ひとつひとつ、集中して仕事をして行きたいです。そして自分が目指したいスタイル、自分が思い描く呉服屋の理想像にたいして、常にぶれる事なく、追い求め、続けて行けるようにしたいです。物真似でない自分だけの表現方法を身につけていきたいものです。
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