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店主中島の、習い事など趣味のページです。

2008年08月のよく遊べ
[過去のよく遊べ一覧]
●2008年08月31日(日)

  DRAW at TARO's atelier


『私自身、これからもわが運命を、
私の”挑み”の意思の実験台にしてやる、と
ますます決意している。確かに危険な道だ。 つねに死の予感に戦慄する。
だが死に対面した時にこそ、
生の歓喜がぞくぞくっとわきあがるのだ。
血を流しながら、にっこり笑おう。』

              (『太陽の塔』)

 

●2008年08月30日(土)

       太陽の塔

 1970年、僕のHEROだった。
 もともと絵を描いたりすることが好きだった子供に
 このみたこともないベラボーな超巨大像
 なんども太陽の塔の絵を描いた
 
        つづく

●2008年08月26日(火)

   素足のつま先立ち 〜夏の終わり・浴衣小感〜


現代では、普段着から礼装においては足袋を着用することが一般的な認識で
浴衣でも、紅梅、長板の物など半衿を見せて白足袋を履くケースもある。
着物という布は、夏でも容赦なく女性の身体全体を覆い隠す余剰布であり
あいかわらず、襟足からと時折垣間みる白足袋と裾との間など以外は、大いに肌を露出することを許さない。浴衣と着物も、同じ分量の布で身体を隠しながら、浴衣における素足には、よくよく考えてみると、
かなりのエロティシズムを含んでいるように考える。

 さて、足袋姿が美しいと思えるのは、観念的なものではなく、着物スタイルにおいて いちばん女の身体のパーツをタイトに見せる、唯一の部分であるからで、その証拠に、足袋は足に吸い付くようなものが粋とされている。着物は、身体のラインを極力隠す方向にありながら
そこだけが、真逆のベクトルをもち、男どもの目に飛び込んでくるのであろう。
 ましてそれが素足となれば、ある種、直視出来ず、まるで覗き見するような気分にすらなる。
これが浴衣姿における素足にエロティシズムを感じる所以である。しかし、ただ肌を無防備に露出しているからではなく、その姿にある種緊張感がみられるときに、初めて、さらなる色気を感じるのである。弛緩したものには美は存在しない。
 ここで話を少し遡ってみる。

江戸時代の頃、大和絵の創始者といわれる絵師巨勢金岡(こせの かなおか)が、秘戯の図を描いて
妻に見せたところ、『げに、よく描かれたり。さりながら、ひとつ難のこそはべれ。
<さるわざ>するとき、女の足の指、かならず屈みさぶろうものなり』<逸著聞集>
巨勢金岡は手をはたと打ち、のちのちはかかる定めにて描いたとある。
この描写は、好色余情の表現様式として後年、浮世絵に受け継がれた。
江戸時代の風俗絵である浮世絵に描写されている女の姿態は、素足が多く、それも指と甲の
激しい反りが、男に抱かれた末に果てる官能の極致を連想させるかのごとく
誇張されている。これは個人の好みとか妄想ではない。

男と通ずる情に満ち足りて、歓の極みに達したときの女の足は、指も甲と激しく
反る。それを見ることは、女自身には所詮叶わぬことであるが、広く情報となって
伝え聞いたであろう。妻の助言は見事な表現様式を作り上げたのである。

 さて、本題であるが、素足の女がつま先立つ色気に、どれほどの男が共鳴していただけるだろうか。本来、露出を拒む着物姿において、剥き出しの素足が『屈みさぶらう』様子は、
<さるわざ>の男女の秘め事における、明らかに見逃さべからず収縮と同様に、女が極る瞬間であると
思われる。男女の視点の相違もあるかもしれないが、この緊張感は美意識に通ずると信じている。
意識的なものも、不随意的なしぐさや動作も言葉を発しない一つの感情表現で、それを見て取る側も
不意に心を鷲掴みにされたようにその姿態の虜となる。洋服姿にそれがないかと言えば、決してそんなことはないと思われるが、きものスタイルだからこそより誇張され、日本人の心情に訴える強さを持ち得ることがあるのだ。

ともかく、この『つま先立つ』という動作は艶めいて、堪らなく愛しい。
 
こうなってくると、ある種のフェチズムと言われるかもしれないが
たまたま偶然に捕らえた一瞬の仕草に、女の美しさを感じられるし
後ろ姿で語る最高の着物姿の一つであると思う。

 画像は、なか志まやオリジナル浴衣『紐・縛り』